明治以降の公教育,大いなる勘違い?
共同代表 弁護士 谷口 亨
行政書士 藤岡 みち子
江戸時代,日本は鎖国こそしましたが,決して隣国に迷惑をかけることなく,長崎出島から,朝鮮通信使を介して朝鮮から,穏やかに諸外国の知識文化を取り入れ,300年もの間,平和な国を保つことができました。
ところがその後の明治政府には,開国したばかりの日本を一刻も早く欧米列強に追い付かせるための富国強兵政策の下,多くの兵隊を育てるために画一的な詰め込み教育が必要でした。机の向きがばらばらで自由に学んだ寺子屋と違い,教師が前に立ち,子どもたちに一方的に知識を詰め込むだけ詰め込ませ従属させる,現代に至る教育のスタイルが始まったのはここからです。
その後日本は隣国との戦いに明け暮れるようになりました。最後は,世界を相手にした大戦で,木っ端微塵に叩きのめされ大敗する結果となりました。
それでもまだ,知識の詰込みこそ「教育」であるという勘違いは終わりません。
コロナの感染拡大防止のための休校が長引くことで,保護者から学校の怠慢を責める声すら上がり始めました。子どもたちが「自ら学ぶ」ことが確立されていれば,学校に行こうが行くまいが,関係ないのではと思わざるを得ません。
今,教師が前に立ち,子どもたちに一方的に知識を詰め込み従属させることが「学び」であるという勘違いを正す必要があると思います。
つまりは,「学び」とは,自ら行うもの,「自学・自律(立)」こそが,真の教育であると思うのです。
「学ぶ」ことは,人の行為の中でかけがえのないことです。
特に言葉は,他人とのコミュニケーションの基本であるだけでなく,「概念」を形づくるのにも欠かせません。昨日まで知らなかった一つの言葉を知ることが,どれほどの世界を広げるか。思い当たることは,どなたにもあるのではないかと思います。
現在,学びたくても,学ぶことを止められている人が世界に大勢います。
たとえばフィリピンでは,現時点での学校再開は8月24日とされています。日本語学校もこれにならう可能性が高いです。
その間も,脆弱なインターネット環境を使って,日本に来たい若者たちと日本語教育者との間で,懸命の授業が続いています。たとえそのコミュニケーションがとても「授業」「カリキュラム」と呼べるものでなくとも,それは生徒たちの希望を繋ぎ止める糸なのです。
だから私たちは,そんな学習者たちに少しでも希望を届けたいと,TERAKOYA NIPPON PROJECT のウェブサイトを立ち上げ,RLC英会話開校のニュースを発信しています。
学びは,いつか必ず実となります。困難に打ち勝つ強い足腰となり,世界に羽ばたく翼となってくれます。
今こそ,国民全員が150年の長きにわたり大きな勘違いをしていたことを認識し,今いちど寺子屋の理念に思いを致してみるべきではないでしょうか。